戦争を語らなかった祖父母たちのことを前回の日記で書きました。 すると、その日記を読んでいただいた方からメールをいただきました。 その方のおじい様がソ連の捕虜だった。 今度は私の方が、戦争の歴史を語り継いでくれた方を思い出しました。 それは、中学校時代の校長先生。 同じくソ連の捕虜だったのです。 全校朝礼で、シベリアに抑留された過酷な体験をお話下さいました。 そこで、日本語に訳されたドストエフスキーの「罪と罰」に遭遇する。 それは、それは、貪るように読んだそうなのです。 食べ物の飢えがあるように、言葉にも飢えがあると。ならば、言葉とは。 「日本語練習帳」の大野晋(すすむ)先生は、言葉とは何かを生涯追究されていました。 先生の著作より、私なりに、言葉は愛するためにあると直感。 では、私たちは、愛するために言葉を使っているでしょうか。 言葉に飢えるとは、すなわち愛に飢えている。もしや、食べ物も同じでは。 言葉や食べ物はあっても、そこに愛がないなら、 この時代も飢える人は溢れるでしょう。
2009年10月02日